昭和時代の亀戸を知る「ちょっと昔の亀戸を知ってみよう」企画。後半も引き続き、亀戸六丁目の六東会館で亀戸六丁目東町会の齊藤庸一会長と武田道男副会長のお二人にお話を伺います。
亀戸六丁目東町会の齊藤庸一会長(左)と武田道男副会長(右)
さて、ここでハーフタイムということで、後半に入る前にお二人が思う「亀戸っ子」ならではの気質を教えてください。
武「特に亀戸だからっていうのはないけど、やっぱり深川や砂町とかと同じで下町気質の血が流れているところかな」
齊「昔は隣近所の子にもおやつをあげたりね。親が自分の子の友達も一緒にどっかに連れてったり、やっぱり今よりも人情があったよね」
前半のお話で町工場が多かったというお話がありましたが、昔気質の職人さんたちって怖くなかったんですか?
武「それが怖くなかったんですよ。頑固そうなおじさんもいたけど、大体みんな優しかった。銭湯に行ったりした時も『お兄ちゃんこっち来な』って呼ばれて遊んでもらったこともあったし」
亀戸愛を語ってくれたお二人
齊「そう思うと、もちろん昔ながらの人情みたいのは無くなりつつあるけど、今も昔も肩肘張らずに暮らせる町っていうのが亀戸のいいところだよね」
武「我々の六丁目東町会もオープンな雰囲気でやってるからね。お祭りを呼び水にして、新しく越してきた人たちにも「みんなで神輿担いで、一緒に遊ぼうよ!」って引き込んでますし」
齊「今の町会は『ここに住んだんだから、みんなで安心安全な町を作っていこうよ』という雰囲気がある。亀戸自体が地方から多くの人が入ってきて作られてきた町だから、気質として新しい人を巻き込むのが上手なんですよ」
今とはちょっと違った⁉︎ 亀戸駅の存在感
なるほど。亀戸の住みやすさが伝わってきました。さて、それでは思い出話に戻ります。こちらは亀戸駅前の昭和30年代頃の写真です。亀戸駅前で思い出深い話はありますか?
《亀戸駅、南側駅前の今昔》
古写真:「江東区史」より転載 提供:江東区
昭和30年代ごろの亀戸駅前南側の風景。昭和中ごろまでの亀戸駅は城東方面で唯一の交通の要衝で、都心と千葉、北関東方面を結んでいた。現在のドンキホーテ亀戸駅前店の場所にあった「丸興百貨店」は、現在の三越のような小売で売る百貨店の形態ではなく、月々の割賦販売で商品を売る月賦百貨店だった。
武「ここ今、ドンキホーテだよね。昔は何だっけ……、あ、丸興百貨店だ。駅南側の風景は覚えているけど、駅の近くで遊んだ記憶はほとんどないし、駅北側の方はほとんど行った記憶がないね」
齊「僕らが子どもの頃、亀戸には駅ビルがなかったもんね。駅前の十三間通商店街にしても、今のようにカラオケとかゲームセンターがあったわけでもないし」
武「こっちの方に友達もいなかったからね。遊ぶとすれば、さっきも言ったように国鉄沿いの池や広場とか。近所に遊び場がたくさんあったからね。今と違ってわざわざ駅まで行く必要がなかったんですよ」
駅前にはあまり思い出がない?
ぐぬぬ……。それでは記事にならないので何かないですか? 喫茶店でデートした思い出とか、待ち合わせ場所に「ハチ公像」的なものがあったとか…。
武「俺たち、だいたい男子は男子だけ、女子は女子だけで遊んでたよね? 路地でビー玉やメンコ、ベーゴマをやったり」
齊「そうだね。しいて駅前に行く用事を挙げるとすれば、ちょっと良い服を揃える時に洋品屋に行ったりとか、家族揃って外食をする時とか、ケーキを買いに行くとか。そんなところかなぁ。そういう意味では今とは駅前に対する感覚が違って、賑やかだけど子どもが遊びに行くようなところじゃなかった」
武「我々の時代はみんなお金がなかったですから。子どもの遊びなんかにお金を使うことができなかった。だから、道端に落ちている釘とか胴を拾ってね。近所のクズ鉄屋さんに売りに行くの。それで10円稼いで、通りの角にある店で皆でもんじゃを食べるのが楽しみでしたよ」
齊「あとは映画を観る時くらいかな。ほとんど錦糸町の楽天地に行っちゃうことが多かったけど、亀戸にも駅前に2つ、あと確か蔵前通りと明治通りがぶつかる角にもう1つ、全部で3つの映画館があったんです。そのうち1つは東映の映画館で、あとは洋画の専門館。今みたいにロングラン上映じゃなくて。3本立てで1週間ずつ作品が変わる時代でした」
昭和の香りをふんだんに漂わせる「トロリーバス」
子どもだけでもんじゃですか、それは楽しそう。駅の存在感が今より大きくなかったし、身近に遊びがたくさんあったということですね。それではこちらの写真はいかがでしょう?
《亀戸駅ホームの今昔》
古写真:『亀戸駅の蒸気機関車』 生田目末吉氏 「江東区史」より転載 提供:江東区
昭和44年(1969)まで両国駅から千葉の銚子駅や勝浦駅まで運行していた総武線のSL。東京23区内で最後まで客車を牽引していた蒸気機関車として知られている。写真に映るC57型蒸気機関車は、その均整の取れた見た目から「貴婦人」と呼ばれた。
武「両国駅が始発駅で、千葉の方まで走っていましたね。今も両国駅には昔のホームが残っているでしょ? 使っていたのはほとんど千葉から東京に来る人たち。僕らは使うことなかったけど、房総の方から大きな荷物を背負った行商のおばさんがよく来てたっけ」
齊「駅の風景、今と昔で意外と大きく変わってないけれど、よく見ると小名木川線の線路を作っているところですね」
皆さんも駅を使うことはあったんですよね?
武「都心なんかに行くのに使ってましたよ。ただ、我々がよく使っていた旧東口は今の東口とは違う場所で、ガードの下に入り口があったんです。線路と線路の真ん中に通路があって、その先に改札口があってホームに通じてました」
亀戸駅東口駐車場近くにあるガード下の通称「総武線トンネル」
このトロリーバスも、若い人がほとんど知らない亀戸の歴史だと思います。では、これがあった頃は街の風景も大きく違ったんでしょうね。
《亀戸駅、北側駅前の今昔》
古写真:『亀戸駅北口のトロリーバス』 田中栄氏 「江東区史」より転載 提供:江東区
トロリーバスとは、道路の上空に張られた架線に流れる電力を動力として走るバス。路面電車のように線路を敷設する必要がないことから経済性が高く、設置も比較的容易というメリットがある。亀戸には昭和27年(1952)に営業開始した江戸川区の今井から台東区の上野公園に至る101系統と、池袋駅から亀戸駅に至る103系統が走っていた。
武「トロリーバスは都電よりも新しいから、私なんかはそんなに古いものではないという印象だけどね。トロリーバスは踏切の上に架線を置けないから、踏切を通るたびに架線にひっかけたポールを外してエンジン駆動で踏切を渡ってたんだよね」
齊「お祝いや催事なんかがあった時は、派手な装飾をした『花バス』が走ってましたよね。僕は京葉道路沿いに住んでいたから頻繁に見た記憶がありますよ」
武「都電の花電車やトロリーバスの花バスが走る時には、急いで沿道まで見に行ったよ」
最後におまけになりますが、こちらの景色はいかがでしょう?
《北十軒川の今昔》
古写真:『福神橋から北十間川を望む』田中栄氏 「江東区史」より転載 提供:江東区
武「これは、きっと福神橋の上から撮った北十間川ですね。ここは川の両脇に遊歩道ができたから、今はまったく景色が変わったよね」
齊「昔、大根祭りの時だったっけかな。カヌーに音楽隊を乗せて盛り上げようとしたら、そのうちの二人が川に落ちちゃったことがあったよね。もちろん二人とも怪我がなくて笑い話で済んだけど(笑)」
そ、そんなハプニングがあったんですね。お二人の記憶力に脱帽です。まだまだいろいろお話を伺いたいのですが、既に記事中に収まらないくらいの情報量になっているので、今日はここまででお開きにして、続きはまた次回にお伺いしたいです。本日は楽しいお話ありがとうございました!
『学ぶ』カテゴリーの新企画。最初からなかなかディープな内容の取材であった。取材を終え、古写真と同じ場所の写真を撮っていたら、時間はもう夕暮れ前。あぁ、腹が減ってきた。、今日は亀戸餃子をテイクアウトして帰るとしよう。
そういうことで次回の「ちょっと昔の亀戸を知ってみよう」をお楽しみに!
※本記事の取材は、政府の7都府県に対する緊急事態宣言の発令前に、取材対象者との距離、取材時間等を十分に配慮して行いました。
Edit by カメイドタートルズ編集部