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  • >【前編】「水運の町」から発展した亀戸の町 運河と内部河川を巡る今昔物語

両脇の河岸に遊歩道が敷かれた北十間川のように、水辺の癒しスポットが多い亀戸の町。別の町から亀戸に移り住んできた方の中には、町じゅうどこに住んでいても歩いて行ける距離に爽やかな水辺がある環境に惹かれて、この町に住むことを決めた人も少なくないはず。


北十間川の風景

ところで、これら荒川と隅田川に挟まれた江東三角地帯を流れる11本の川(旧中川、大横川、大島川西支川、大横川南支川、北十間川、横十間川、仙台堀川、平久川、小名木川、竪川、越中島川)を総称して「江東内部河川(こうとうないぶかせん/以下、内部河川)」と呼ぶことはご存知でしょうか。しかも、この内部河川の誕生は亀戸の町そのものの発展にも大きく関わっているのです。

そこで今回は「ちょっと昔の亀戸を知ってみよう」企画の第2弾として、亀戸とその周辺を流れる内部河川の歴史を追ってみようと思います。

すべては「江戸史上最大の大火」をきっかけに始まった

ここでは亀戸のご近所、大島にある江東区中川船番所資料館の小張洋子さんに伺ったお話を交えながら、亀戸を「水運の町」に発展させた内部河川の歴史を辿っていきます。

※江東区中川船番所資料館への取材は電話取材にてご協力いただきました。
★江東区中川船番所資料館
かつての中川船番所の跡地に建つ資料館。常設展示では「江戸をめぐる水運」をテーマにした多彩な資料展示のほか、江東区の郷土や暮らしに関する歴史資料も豊富に展示している。特に、在りし日の船番所周辺の様子を再現した大ジオラマは必見だ。企画展等も開催。現在は新型コロナウイルス感染症の影響に伴う対応で5月31日まで臨時休館中(今後、東京都の緊急事態宣言の延長等により休館延長の可能性あり。詳しくは公式ホームページにて確認を)。

「亀戸が今のような陸地になるのは江戸時代に限りなく近くなってからのことです。それまでは干潟のような場所で、そこに周辺の荒川(隅田川)や、中川から流れてきた土砂が溜まり、だんだんと浅瀬が広がってきたと考えられています」


《名所江戸百景 中川口》歌川広重 安政4年(1857) 国立国会図書館デジタルコレクション
多数の舟が浮かぶ、江戸時代の中川の様子。

遥か昔の亀戸について、そう説明してくれた小張さん。中世の頃の亀戸は、亀戸香取神社(665年創建)や龍眼寺(1395年創建)の手前辺りまでが海岸線で「亀津村」と呼ばれた小さな漁村でした。そんな村が大きく発展したのは、慶長8年(1603)に起こった江戸幕府の開府より後のこと。特に、四代将軍・家綱公の時代だった明暦3年(1657)に起きた「明暦の大火」により、町は大きく変貌を遂げます。

「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が生まれるほど火事が多かった江戸の町。その中でも、江戸城のほか江戸市中の大半を焼き尽くしたこの火事は後に「江戸史上最大の大火」と言われ、約10万人近い人々の命を奪ったといわれます。

《むさしあぶみ 》 万治4年 [1661] 国立国会図書館デジタルコレクション
明暦の大火の様子を記した絵図。燃えさかる火炎が災害の凄まじさを物語る。

家康公の時代から治水と水運網の整備に力を入れていた徳川幕府ですが、その復興を境に江戸の町の拡大と防火対策を一層重視した町づくりに取りかかりはじめ、大名屋敷や寺社などが郊外に移されることに。その一環として、埋め立てが進められていた亀戸にも運河が整備され、行徳からの塩を運ぶ「塩の道」として既に開削されていた小名木川に加えて、北十間川、横十間川、竪川といった後の内部河川が造られました。

「日本の中心都市となった江戸を維持させるため、おそらく幕府の中には関東一帯に強力な物流網を広げるマスタープランのようなものがあったのでしょう。その中で川を利用した舟運は大動脈の役割を果たしました。また、運河を掘る時に出た土砂は土地の埋め立てに活用され、開削と埋め立てが同時進行で進められました」(小張さん)

江戸の発展に不可欠だった河川舟運の存在

その後、寛文元年(1661)には小名木川の西にあった深川番所が東の河口に移転して中川番所が造られ、利根川水系を下って来た北関東からの舟や江戸川などを経由して房総方面から来た舟の「川の関所」になりました。

《江戸名所図会》天保5-7[1834-1836] 国立国会図書館デジタルコレクション
天保時代の中川河口。船番所の様子も描かれている。

「埼玉や千葉の方から江戸を訪れる舟は、必ず小名木川から入るのがルールでした。その上で、中川番所は全国に53か所あった関所の中でも珍しい『川舟専門の関所』だったのです。また、江戸に通じる最後の関所というのも特色のひとつで、江戸に運ばれる人と物に対して厳しいチェックが行われました」(小張さん)

鉄道や飛行機などなかった時代、舟運は最も優れた運送手段でした。

「米俵を例に挙げると、馬1頭に積めた数は2俵。それに対して最も大きな川舟(高瀬舟)ならば一度に2000俵の米を運ぶことができました。当時、千葉県の佐原から江戸まで舟で1週間ほどかかったと言われていますが、重たい荷物を陸路で運ぶことを思えば、時間的にも労力的にも舟は非常に効率的な運搬手段だったのです」

小名木川と横十間川が合流する「小名木川クローバー橋」付近。かつてはここを多数の舟が行き交った。

そう小張さんは話します。特に江戸時代以降は年貢米の徴収や参勤交代に伴う物資の運搬など、地方から都市に運ばれる物量が大幅に増えました。また、明暦の大火で多くの命が奪われたとはいえ、その後も人口は爆発的に増加。18世紀前半には人口100万人を越え、世界最大級の都市に発展したこの町において、大量な需要に見合うだけの食料品や資材などを賄うには、地方と都市を繋ぐ河川舟運の発展が不可欠だったのです。

《北本所亀戸辺ヨリ中川迄 : 天保十一年八月ノ形》国立国会図書館デジタルコレクション
天保11年(1840)の亀戸村の地図。町の中を流れる中川や堅川が描かれている。

「一番多く運ばれたのは、やはりお米です。その他には、生鮮食品、材木や肥料、お酒など、生活に必要なありとあらゆるものが各地から江戸に運び込まれました」(小張さん)

下り(江戸に来る)の舟がそうした原材料品を多く運んできた一方で、上り(江戸から帰る)の舟は織物や反物、鰹節や干物など生産品や加工品の運搬が多かったといいます。そして、もちろん川船は人々の移動手段にもなりました。そして、江戸に向かう各地の河岸には、人や荷物の積み降ろしや積み替えを行う「河岸(かし)」という宿場町のような拠点が造られ、河川舟運の発達は地域の産業にも貢献したのです。

さて、それでは亀戸だけにもっとフォーカスを絞ってみると、どんな歴史が見えてくるでしょうか。後編もこうご期待!

【DATA】
江東区中川船番所資料館
所在地:東京都江東区大島9-1-15
電話番号:03-3636-9091
開館時間:9:30~17:00(入館は16:30まで)
休館日:月曜(ただし祝日の場合は翌日休館)、年末年始、その他に臨時休館日あり
観覧料金:一般(高校生以上)200円、小・中学生50円
※6月1日より、新型コロナウイルス感染拡大防止対策を講じた上で、一部施設の利用を再開中。ご来館の際は公式HPにて詳細をお確かめください。

Edit by カメイドタートルズ編集部