2ヶ月近くに及ぶ自粛期間で、亀戸への想いが良い意味で(?)爆発してしまったカメイドタートルズ編集部のあるライター。

緊急事態宣言解除を待たずして、一心不乱にパソコンへと向かった彼女が書き上げたのが今回の企画、

亀戸を舞台にしたある男女の物語。甘酸っぱいストーリーに青春を思い出すもよし、現地で聖地巡礼するもよし。亀戸愛にとりつかれるがまま書き上げた、渾身の小説の第二話。

第一話はこちら!

【亀戸×恋愛小説】うそひめ 第二話

その週末、私は再び煎餅屋に向かった。煎餅が思いの外美味しかったので、自分でも焼いてみたくなったのだ。それにこの町には誰一人まともな知り合いはいないし、女将さんと話すことでひとときでも孤独を忘れられるような気がしていた。

最近は夜になると、元彼のことで頭がいっぱいになってしまい、今頃なにをしているのだろう、とか、自分のことでも思い出してやしないかと、交互に訪れる期待と失望に疲弊しきっていた。おかげで不眠症になってしまい、この時間まで起きられない。派遣の仕事も年末で契約が終わってしまったから、そろそろ職探しをしなければいけない頃だというのに。昼下がりの亀戸の空気は冷たいながらも空には晴れ間が見えていて、無理やりに私の心を奮い立たせようとしていた。

「いらっしゃい」

てっきり女将さんがいるものだと思い込んでいた私は、先日の男の不意な登場にたじろいだ。そもそも二十代半ばにもなって煎餅を焼きたがるのも妙なわけだから、貸しがあるこの男に間抜けなことは言えない。男はまごつく私を見つめ、しばらくすると「ああ」と声を上げた。

「この間の……」

私がうなづくと、男は目を細め、頭を深々と下げた。

「すみません、あの日は急いでいたものだから。毎年、鷽を買いに行くのは僕の役目で」
「そうなんですね」
「申し訳ないです。会社にはギリギリ間に合ったんですけど」

男が意外にも素直に謝れる人間だと知り、私は彼を少し見直した。そして、あたかもいま知ったかのように努めて口を開いた。

「へぇ、ここではお煎餅を焼いたりもできるんですね」
「はい。やってみますか」

男は昔使っていたという焼き台を店の奥から引っ張り出し、機械のスイッチを入れると網を温め始めた。すりつぶした米を薄く広げた生地を網に載せてからは、十秒毎にひっくり返さなければいけないという。繰り返すうちに透明感のある生地は徐々に白くなり、自由気ままに膨らんでいく。そこからは三秒ごとに裏返す。

途中、男が時々「今です!」と声をかけた。男の声はその時だけ大きくなるので、その度に心臓がどきりとした。でも男の顔をよく見れば、その額にはうっすらと汗が滲んでいて、鷽替の日に見た様と同じだった。なんだかおかしくて、なつかしい光景だった。男に言われるがまま、煎餅を一度網から下ろし、表面に刷毛で醤油を塗る。醤油の香りは一直線に私の鼻腔を支配し、口に入れずとも先日の感動が蘇った。

「賞味期限は一秒です」

上品に光った煎餅は唇の間で軽やかな音を立て割れた。煎餅は焼き立ての温かさを保ったまま、口の中で砕けて喉を滑っていく。それは紛れもなく“いきもの”だった。

「美味しい」
「いやぁ、良かったな。焼き立てはね、本当に美味いんですよ」

男は屈託ない笑顔を見せ、生地をもう一枚網に載せた。

「あら、来てたの」

振り返ると、店の入り口にスーパーのビニール袋をいくつも抱えた女将さんが立っている。

「どう、お煎餅を焼くのって楽しいでしょ」

それでは、まるで私が最初から煎餅を焼くつもりで来たみたいだ。女将さんに言われ、男の前では少しバツが悪かったが、私は静かにうなづいた。

「この辺に引っ越してきたばかりなんだって。あんた案内してあげなさいよ」

女将さんは男にけしかけた。私は丁重にお断りしたが、女将さんは引かない。

「この間のお詫びと今日のお礼です、案内しますよ」

と、ついに男まで言い出したので、私も観念してこの町を案内してもらうことにした。

店から十分ほど歩くと、小さな商店街に辿り着いた。

「ここではね、角打ちが楽しめますよ」

通りにはリアカーのような屋台がいくつか出ており、常連と思しき客たちが談笑している。恵比寿にも“横丁”と呼ばれる場所はあったけれど、リアカーが出ていることはなかったし、生まれて初めての体験に胸が高鳴った。

男は私が亀戸に引っ越してきた理由を知りたがった。しかし真実を話すには彼はあまりにも他人だったし、私の心もまだじくじくと痛んでいた。私は「下町に興味があって」とだけ答えて、町のことをいろいろと教えてもらえるよう話題を促した。

酒が進むと、男は饒舌になった。男は私より三つ年上で、生まれも育ちも亀戸。いまは電気系のメーカーに勤務していて、週末だけ店を手伝っているという。父親は足腰が悪く、最近は通院の回数が増えたそうだ。春になると亀戸天神では藤まつりがおこなわれ、藤の花が一斉に咲くらしい。煎餅屋は明治時代のその時期に創業したらしかった。

家業を継ぐ気はないのかと聞くと、男は少し口ごもった。

「そうですね、彼女が煎餅屋はちょっとって言うんで」

……ああそうか。この男にだって、恋人はいるのだ。彼女は同僚の紹介で出会った年下だそうで料理は苦手だけど、自分にはもったいないくらいの美人らしい。幼い頃、お金に苦労した家庭で育ったらしく将来は安定した暮らしをしたい。だから、煎餅屋よりもメーカーに務める方が彼女のためになると考えているのだ。男は下を向いていたが、その表情は明るく、恋人を愛おしそうに思い出しているようだった。

「お付き合いされている方はいるんですか」
「ええ、まあ、はい」

アルコールで頬を赤らめた男の呑気な顔に私はたちまち居心地が悪くなり、怒りを込めて答えた。幸せな人間は、不幸な人間が絶望の淵であえいでいることなど想像もしない。平和ボケしているのだ。この男だって自分には恋人がいるのに、出会ったばかりの女とちゃっかりと食事に出かけている。こうやって元彼も私以外の女と浮気していたのだ。男は私の恋人についてもくわしく聞きたがったが、私は適当にあしらうと会計を頼んだ。「お詫びですから」としつこいので、お代は男に払ってもらった。

「また連絡しますね」

そう言って、男が手を振る。私たちはこれほど酒が進む前に連絡先を交換していたけれど、私は今になって後悔していた。頭を軽く下げて、男に背を向けると家路を急いだ。

「……結構です」

もごもごと繰り返すと口の中に醤油煎餅のような塩気を感じた。私は目元を拭いながら少しだけ鼻をすすって帰った。

※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

《次回予告》

自分の気持ちとは裏腹に、男を待ち続ける「私」。しかし、無情にも男の心は彼の恋人に向いていて…。

執筆: 稲井たも

Edit by カメイドタートルズ編集部