2ヶ月近くに及ぶ自粛期間で、亀戸への想いが良い意味で(?)爆発してしまったカメイドタートルズ編集部のあるライター。

緊急事態宣言解除を待たずして、一心不乱にパソコンへと向かった彼女が書き上げたのが今回の企画、

亀戸を舞台にしたある男女の物語。甘酸っぱいストーリーに青春を思い出すもよし、現地で聖地巡礼するもよし。亀戸愛にとりつかれるがまま書き上げた、渾身の小説の最終話。

第三話はこちら!

【亀戸×恋愛小説】うそひめ 第四話

今日が藤まつりの最終日だと知り、随分迷ったけれど観に行くことにした。煎餅屋があれからどうなったのかを知るのが怖くてずっと躊躇していた。

でも店がどうなっていても、藤を観に行く意義はある。それが、真に店を愛するということだからだ。明日からまた一週間が始まる。その前に藤を見れば、英気も少し養えるだろう。

ゴールデンウィークが始まる数週間前に、やっと仕事が見つかった。定時で帰れる派遣社員が良かったけれど、“正社員なら”という会社の意向で私は就職した。

私よりかなり年上ばかりの職場でジェネレーションギャップは感じるけれど、事務職に就けただけでも運が良い。就職祝いのご褒美に買った白いワンピースをおろして、私は鏡の前で一回転をした。

天神に向かう途中、煎餅屋の店先で男の姿が見えた時は心底ほっとした。男は焼き台で小さな男の子に煎餅の焼き方を教えている。生地をひっくり返すタイミングを見計らっては大きな声を上げるのが面白い。

通り向かいからその姿を眺めている私に男が気づき、手を振った。女将さんまで店の入り口に出てきたので、私はたまらなくうれしくなり、小走りで通りを渡った。

「久しぶりね、元気だった?」
「はい、お店がしばらく閉まっていたので心配だったんですが」
「大丈夫よ、お父さん、退院したから。今は寝てるんだけどね」

女将さんは明るい調子で言った。私は焼き台にいる男に小さく頭を下げる。男も同じように頭を下げ笑うと、焼き立ての煎餅を私にそっと差し出した。

私もなにも言わず、ただ煎餅をゆっくりと齧る。久しぶりに食べる焼きたての煎餅は格別だ。香ばしい醤油が舌を刺激して、涙腺が緩みそうになる。店がこの時期まで持ってくれて本当に良かった。

「藤はもう見たの?」
「いえ、これから観に行こうと思って。もう遅いですかね」
「夜の藤もいいですよ」

女将さんとの会話に男が切り込んだ。藤は夜になるとライトアップされ、昼とはまた違う美しさがあるという。人数も減るので、ゆっくり観られるらしかった。

「観に行きましょう、店もこれから混みはしないでしょうから」

男が藤を観ようと誘ってくれて助かった。男の彼女には悪いが、恋人がいると嘘をついてしまった以上、こちらから誘うタイミングが見つからなかった。いつまでも気まずいのも何だし、私も大人気がなかったと詫びなければ。

天神には夕方の藤を観る客がちらほらといた。ほの暗くなってきた辺りに溶け込むように、棚からたくさんの藤が垂れ下がっている。そこかしこに甘くてさわやかな香りが漂い、うっとりとしながら、私はスマホのカメラで何枚も藤の写真を撮った。

「この間はすみませんでした。ちゃんと謝らなきゃと思っていたんですけど」
「いえ、私こそごめんなさい。余計なことを言いました。お店、持って良かったですね」
「はい。やっぱり店は潰れたら嫌ですね。嫌なんですよ、それを僕は分かってなかった」
「分かってなかった、って言うのは」
「僕なんかと付き合ってくれる彼女を、大切にするべきだと思ってたんです。でも煎餅もあの店も僕の一部っていうか……。彼女が煎餅屋の僕を本当に愛してくれていたのかっていうと、違うような気がして」

それから男は彼女と別れたことを話した。週末になかなか会えないので、彼女は度々愚痴をこぼしていたらしい。店の状況を知ってはいたけれど、ある日「このままじゃ結婚なんてできない」と言われた時、男の中でなにかの糸がぷつりと切れてしまった。

別れ際、彼女はひどく泣いたらしい。大人しい男だから彼女は自分が男を振ることがあっても、自分が振られるとは予想もしなかっただろう。男はメーカーの仕事を辞めるつもりはないが、必要なときはこれまで通り週末に店に立つ予定だという。

「お煎餅は、美味しいですよね」

男の素直な気持ちを聞いて、私は清々しい気持ちで言った。男は私の方を向き、にっこりと笑う。いい男だな、と思った。

「そういえば……。彼氏さんとはどうですか?」
「ああ!彼とは別れましたよ」

男が驚いた顔をした時、藤はパッとライトアップされた。優しい風が吹き、私の白いワンピースの裾はふんわりと膨らんだ。

〜終〜

※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

執筆: 稲井たも

Edit by カメイドタートルズ編集部