今回は歴史とともに亀戸の名所を巡る企画。
亀戸には歴史的・文化的に価値のある場所が数多くあり、このエリアの代表的な観光名所となっている。そんな古くから人々を楽しませてきた名所を、江戸中期から戦前までに描かれた浮世絵や写真とともに紹介していく。
葛飾北斎も描いた亀戸天神社
亀戸の名所として最も有名な場所といえば、やはり亀戸天神社だろう。
菅原道真の末裔で九州の太宰府天満宮の神官であった菅原大鳥居信祐(すがわらおおとりいのぶすけ)が、この地にあった祠に天神像を祀ったのが始まりとされており、1662年に造営された。
玉川舟調(1795~1801年)
こちらは、浮世絵師の玉川舟調(たまがわしゅうちょう)が描いた亀戸天神社。
右上に「亀戸天満宮」と記載されている。当時、大宰府天満宮に対して東に位置することから「東宰府天満宮」や「亀戸宰府天満宮」と呼ばれていたためで、1936年現在の「亀戸天神社」が正式名称となった。
葛飾北斎(1833~1834年)
かの有名な浮世絵師、葛飾北斎も亀戸天神社を描いている。
こちらは1833~1834年に描かれた「諸国名橋奇覧 かめゐど天神たいこばし」。全国の有名な橋の一つとして亀戸天神社の太鼓橋を描いている。特徴的なのは太鼓橋の大きさ、本来の高さよりも2倍以上のサイズに描くことによって太鼓橋を強調しているのが分かる。
題名の左下に「前北斎為一(ぜんほくさいいいつ)」と記載されているが、これが葛飾北斎の名前で、葛飾北斎は頻繁に改号(名前を変える)することで有名だった。晩年には画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)という現代で言うところの中二病的名前まで使用していたのだ。
葛飾北斎(1800年)
葛飾北斎は、江戸の名所・風俗を歌とともに紹介した『東都名所一覧』でも亀戸天神社を描いており、その時の名は北斎辰政(ほくさいときまさ)だった。
葛飾北斎同様に、実は亀戸もその名前を変えている。この東都名所一覧にて「亀井戸」と記載されているが、これは「亀戸」が、その昔「亀井戸」とされていた時の名残である。本来「カメド」と読む文字を「カメイド」と読むのには、「亀井戸」と記載していた歴史によるものなのだ。いつしか「井」が抜けて「亀戸(カメイド)」と読むようになったのである。
また、葛飾北斎と同じ時代を生きた歌川広重。彼もまた亀戸天神社を描いた。
歌川広重は亀戸の名所を描いた作品を複数残しており、亀戸天神だけでも多くの浮世絵が存在している。
歌川広重(1858年以前)
歌川広重(1858年以前)
歌川広重(1853年)
冬の亀戸天神を描いた珍しいものから、現代的な遠近法を用いた作品まで存在しているのだ。
『富嶽三十六景』の葛飾北斎、『東海道五十三次』の歌川広重、その当時から名声を受けていた浮世絵師が亀戸天神社を何度も描いているのである。そのことからも、亀戸天神社が江戸の人々に親しまれていた名所であることが分かるだろう。(※歌川広重の名は襲名制)
外国人の心も魅了した亀戸天神社の藤
亀戸天神社といえば、4月下旬から一斉に咲き始める藤の花を忘れてはならない。
歌川広重(1856年)
歌川広重の代表作の一つ『名所江戸百景』で、亀戸天神社の藤の花を描いた「亀戸天神境内」。この作品はフランスの画家クロード・モネに影響を与えたとされている。
藤の花は、国内外の絵師や写真家が作品として残しているので、それらも紹介する。
楊洲周延(1895年)
幕末から明治にかけての浮世絵師、楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)の作品。彼は絵師でありながら、幕末の志士として戊辰戦争で戦った人物で、この作品は彼が明治維新後に描いたもの。
ウォルター・フレデリック・ルーフン・ティンデール(1912年)
明治に入ると、外国人画家の残した作品も登場するようになる。世界各国を旅しながらその土地の風景を描いたイギリス画家、ウォルター・フレデリック・ルーフン・ティンデールの『Wistaria at Kameido(亀戸の藤)』。
ヘレン・ハイド(1914年)
アメリカの女性版画家で、日本を題材とした浮世絵風の版画を多く残しているヘレン・ハイドの作品。
ここからは、100年以上前に撮影された写真。※カラーになっているものは彩色写真。
(1890~1894年)
(1890~1903年)
Elstner Hilton(1914年)
ゴッホが模写をした梅屋敷
江戸時代、梅屋敷と呼ばれる梅の名所も亀戸で有名な観光地だった。呉服商を営む伊勢屋彦右衛門(いせやひこうえもん)の別荘だった場所で、1910年の洪水により残念ながら失われてしまったものの、当時の浮世絵からどのような場所だったのか見てみよう。
勝川春好(1810年)
勝川春好(かつかわしゅんこう)の描いた梅屋敷。当時150メートルにもわたって枝を伸ばしていたという1本の古い梅の木があり、水戸光圀が「臥竜梅(がりゅうばい)」と名付けたと言われている。
歌川国虎(1830年)
勝川春好の浮世絵と同様に梅を楽しむ人々が描かれている。現在の花見と言えば桜(ソメイヨシノ)が一般的だが、花見=ソメイヨシノとなったのは明治以降のことであり、元々は梅を見る花見が主流だったと言われている。
歌川広重(1857年)
「亀戸天神境内」とともに『名所江戸百景』の中で歌川広重が描いたもの。
この作品は、あのフィンセント・ファン・ゴッホが感銘を受け、模写をしたことで知られる浮世絵だ。下記がゴッホの模写である。
フィンセント・ファン・ゴッホ(1887年)
梅を超近景に配置する歌川広重の大胆な構図を、忠実に再現している。
現在、亀戸には「亀戸梅屋敷」と名がつけれらた、イベント開催・名産品販売の施設がある。
これには『粋な江戸ッ子たちを魅了し、その名を世界に知らしめた「亀戸梅屋敷」。当時の賑わいの場として、そして、江戸/下町/亀戸の粋な歴史と文化を世界へ発信する拠点として、当館を「亀戸梅屋敷」と名付けました。(公式サイトより抜粋)』という想いが込められている。
名だたる画家が描き、世界の芸術にも影響を与えたと言える亀戸の名所。
梅屋敷は洪水によって失われてしまったとお伝えしたが、記事で紹介した亀戸天神社、そして亀戸の町は東京大空襲で多大な悲劇を受けている。
石川光陽(1945年)
右上に亀戸天神社の文字が確認できる。この写真は写真家の石川光陽が1945年の3月に撮影したものだ。東京大空襲によって亀戸天神社は蔵の一部を除いたほとんどが焼失し、亀戸の町自体も一面瓦礫が広がる風景へと様変わりしてしまったのである。
現在、新型コロナウイルスの感染拡大により、大規模なイベントは自粛となっているが、この事態を乗り切ればきっと以前のように、春になれば藤の花が彩り、夏になれば神輿や御鳳輦(ごほうれん)が巡回して活気づく。そんな亀戸の町が戻ってくるだろう。
しかし、こうした伝統文化や行事を我々が当たり前のように楽しむことができるのには、歴史と文化のために尽力してきた人々のおかげであることを忘れてはいけない。
Edit by カメイドタートルズ編集部