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  • >【前編】創業101年、亀戸住人に愛される福地写真館

この写真は今から約100年前に撮影された亀戸天神社である。(詳細は過去記事「【葛飾北斎・歌川広重】浮世絵とともに巡る亀戸の名所」)

(1890~1903年)

亀戸天神社こそ今と大きく変わらないものの、人々は着物に身を包み、まるで時代劇の光景のようだ。
そんな、約100年前に創業し、今も亀戸住民に愛され続ける一軒の写真館がある。

これがその写真館だ。

場所は亀戸ではなく、ロシアのウラジオストク。当時、ウラジオストクには約6,000人の日系人が暮らし、日本人街を形成していた。
そんな外国で創業した写真館がなぜ今、亀戸にあるのか。

 

福地写真館の3代目代表である福地憲一さんにお話を伺った。

福地憲一さん
創業101年の老舗である福地写真館の3代目代表取締役社長
東京都写真館協会理事長賞2年連続受賞や東京都都議会議長賞を2回受賞するほか、原宿学園 東京デザイン専門学校グラフィック科 講師を8年間務めていた経験を持つ。

 

———福地写真館の歴史をお教えください。

福地写真館は、今年創業101年を迎えました。初代、つまり私のおじいさんである義憲がロシアのウラジオストクで創業したんです。
初代は、化学に精通した知識を持っており、今でいう商社の化学部技師としてウラジオストクで働いていました。そこでは写真に使用する材料を扱っており、その時にカメラを覚えて1920年にウラジオストクにて独立しました。

 

———なぜ、ウラジオストクから亀戸に?

ロシア革命の影響で帰国せざるを得なかったと聞いています。そして1924年に広島に移ったのですが、その後原爆により写真館は焼失しました。戦争当時、沖縄戦で出兵していた父は無事で、終戦後に親戚を頼って亀戸に来たんです。
その頃、この場所には親戚が営む工場があったのですが、工場をたたんだことにより、写真館を開きました。それが1949年ですね。

その当時の雰囲気を感じることができる店舗の外観

 

———当時の亀戸はどのような場所だったのでしょうか?

工場が多くある町ですね。目の前の大通り(蔵前橋通り)は今の半分くらいの幅だったし、江東新橋もなかった。その奥にある平井大橋も万博の時にできたから、道自体が今のようにつながってなかった。亀戸天神社の裏で船渡しで人を運んでいたくらいですからね。

当時の亀戸駅の様子。蒸気機関車が走っていた。

古写真:『亀戸駅の蒸気機関車』 生田目末吉氏 「江東区史」より転載 提供:江東区

 

———そして、3代目としてこの写真館を継がれたわけですね

そうです。長年、亀戸という町や人を撮影してきました。亀戸天神社の梅まつりの写真は私が毎年撮影させてもらってます。その年に撮影するのでは、ポスターなどには間に合いませんから、去年の写真を使うんです。今年の梅まつりのポスターも去年私が撮影したものです。デザインまで私がやってるんですよ。
あとは、毎年記念日に家族写真を撮影するので、どうしても町や人に詳しくなりますよね。そんなこともあって、江東区観光協会 亀戸支部の支部長なんかもやっています。私は亀戸生まれ、亀戸育ち。亀戸に対する愛情もありますからね。

店舗に飾られている家族写真。福地さんのご親戚だそうで、叔母さんが亡くなるまで毎年にわたって撮影してきたそう。

亀戸という町を愛する福地さん。次回後編では、観光協会支部長としての活動などについてお聞きする。

 

スポット紹介

スポット名:福地写真館
住所:〒136-0071 東京都江東区亀戸3丁目45−15
アクセス:JR総武線「亀戸」駅 より徒歩12分
営業時間:9時~18時 木曜定休日
※亀戸天神社内写真室は12月24日(金)〜1月14日(金)まで閉室しております。
蔵前通り沿いの本店をご利用ください。本店は元旦より営業しております。

詳細はHPにて確認できます。

Edit by カメイドタートルズ編集部